〜屋島の合戦〜

一ノ谷の戦いで、多くの有力武将を失っていた平家は
本拠にしていた四国・屋島を拠点に勢力回復を計るお。

平 清盛の時代、西日本で絶大な勢力を誇っていた平家は
戦力を失ったとはいえ、まだ中国地方・九州に強い基盤を持っていたお。

この平家の基盤を叩くため、中国地方・九州の平家討伐が企画されたお。

本来は義経が総大将だったけど、後白河 法王をはじめ朝廷が
京の警備を義経に依頼お。

平家の拠点だった伊賀・伊勢での叛乱に義経が出陣したため
中国地方・九州の平家討伐には、源 範頼があたったお。

範頼は、藤戸の戦いで、佐々木 盛綱の奮戦もあって備中国を制するも
長く伸びた兵站(補給路)を、度々平家に脅かされたお。

また水軍不足と、関門海峡を一ノ谷でも総大将を勤めた平 知盛に守られ
半年にわたって九州への上陸を阻止されたお。

なんとか地元の豪族の協力を得て九州上陸は果たすものの、九州北部で苦戦お。

このままでは九州撤退を招き、平家を勢い付かせると見た義経は
後白河 法王に強引に出兵の許可を取り付け出陣お。

向かったのは九州ではなく、四国の平家の拠点・屋島お。

熊野水軍や伊予水軍を味方につけた義経軍は
暴風雨で荒れ狂う海を渡りきるお。

阿波国・勝浦に到着した義経軍は、この地の平家・総大将、田口 成直が
伊予水軍討伐のため出陣していて、手薄になっていた屋島を急襲お。

成直の弟、田口(桜庭) 良遠の館を襲い、敗走させるお。

その後、夜通し進軍し讃岐国まで達すると、屋島の対岸に布陣お。

干潮時には地続きになる事を知った義経は、陸路で
屋島を急襲お。

義経軍の兵が少ない事に気付きはじめた平家軍に対し
義経は民家に火をかけ、燃え盛る炎で大軍に見せる事に成功お。

敗走した平家だったが、義経軍が以外に少ない事が露見し
猛攻を仕掛けてくるお。

この猛攻で、奥州・藤原氏に付けてもらった重臣・佐藤 継信が
義経をかばって戦死お。

平家物語によれば、平家・最強の武将・平 教経が
義経に向けて射た矢を受けての討ち死にとされるお。

※吾妻鑑では、教経は既に一ノ谷で戦死してるお。


夕刻となり停戦がなされると、平家は一艘の船に
美女を乗せ、竿の先に扇を立てて、源氏方を挑発したお。

有名な『扇ノ的』ってヤツお♪

挑発を受けぬは恥と、源氏の弓の名手・那須 与一が矢を射ると
矢は扇を射て、扇は海に落ちたお。

その後、再び戦となるも、義経は少数の兵で持ちこたえ
源氏の援軍が迫っている事を知った平家は敗走したお。