甲陽軍鑑ついての考察お♪



今回は、戦国武田氏を語る上で外せない書物『甲陽軍鑑』について、公証していきたいと思いますお♪


まず、甲陽軍鑑とはなんぞや?…と思われると思いますので説明お。

甲陽軍鑑は、武田氏の記憶を武田の重臣、『高坂弾正昌信』がしたため、信玄亡き跡を継いだ武田勝頼と、一枚岩になれていなかったその取り巻きの家臣たちに宛てた諫言集ですお。

高坂弾正が亡くなると、その与力(相備え?)であった小幡光盛が書き継ぎ、それを小幡一族の小幡勘兵衛が完成させた物と言われてますお。


〜『甲陽軍鑑』の信憑性〜

で、なぜこの『甲陽軍鑑』を今回取り上げたかというと、甲陽軍鑑は江戸時代を通して武門にある者にとっては、基礎知識となる程流布した書物で、武士のたしなみとも言えるんじゃないかと思う書物お?

でも、明治のある時期に信憑性が疑われ、ついには歴史的価値のまったく無い荒唐無稽の悪書とまで言う人まで出てきたお。

武田の武士の様子を、細かく書き記した『甲陽軍鑑』を悪書とは、まったくもって困ったモンお。

いちごは、物語を書く人間?として、この『甲陽軍鑑』にまつわる悪評について苦言をていしたくてこのたび取り上げた次第お。

お?

お前なんぞが偉そうにお???

だいたい、信玄と牛若丸が一緒に出てくるマンガ描いてる奴に言われたくないお!!?

…まっ、ま〜ね〜だお!!?

でもま、論評すんのは自由だし、物語を描いて酷評されるより、論評する側にまわった方がはるかにお気楽お〜♪

話がそれたお…。


『甲陽軍鑑』の歴史的信憑性については、江戸時代の初期から言われていた事で戦(いくさ)のあった年や季節等に誤りがある事から信憑性が疑われたお。


でも、よく考えて欲しいお。

『甲陽軍鑑』は、別に歴史書じゃないお。

まず作者は、高坂弾正昌信で、元は春日源五郎といい、豪農の息子ながら、武田信玄の寵愛を受け、長じては侍大将となり、あの上杉謙信との戦いの最前線である『海津城』を任されるまでになった智将お。

謙信をして、高坂のあるうちは、容易に信濃は手に入れられないと言わしめた名将お。

この高坂の活躍した時代は、武田にとっても最盛期だったお。

高坂をはじめ、山県、内藤、馬場、真田ら、勇将・智将・名将を揃え、戦国最強と
謳われた武田騎馬軍団は、陸戦を得意とする家康すら粉砕したお。


武田の武名は全国に轟き、あの信長でさえも、信玄には贈り物攻め・婚姻関係を結ぶなどして友好関係を保っていたお。

最も、信長は浅井・朝倉らを相手にせねばならず、信玄は川中島で上杉謙信と対峙し関東の北条氏康とも事を構えるに至っていたという事情はあったけどお。


でも、時代は下り、信玄が三方ヶ原で家康を破った後、病に倒れ還らぬ人となると武田の命運は暗転する。


信玄の跡を継いだ武田勝頼は、決して暗愚な将ではなかったお。

むしろ、信玄すら落せなかった堅守の城・高天神城を攻略するなど、武略にすくれた跡取りであったと言えるお〜♪


では何故、武田氏の滅亡を招いたのか…お??


それは、一つに血筋お。

勝頼は信玄の四男であり、本来は武田の跡を継ぐべき人物ではなかったお。

母である、諏訪御料人の血筋である諏訪の家を継ぎ、諏訪勝頼と名乗っていたお。


それが、長男である武田義信が、信玄に謀反を企てたとして廃嫡・幽閉され、後に
病死してしまったお。

義信が自分の妻の実家である今川氏との同盟を、信玄が勝手に破棄し攻め滅ぼした
事に対しての報復の謀反との見方もあるお。

次男の竜芳は生まれつき盲目であり、三男は幼くして亡くなっていたので、四男である
勝頼が武田姓に復帰し、跡を継いだお。


でも、正式な跡取りではなく、勝頼の息子で信玄の孫にあたる信勝が成人するまでの
つなぎの跡取りでしかなかったお。

これは、信玄が無理な今川との同盟破棄と、長男・義信の廃嫡・死に重臣の多くが
納得せず、勝頼を正式な跡目にできなかったんじゃないかお??


そんな不安定な立場なモンだから、勝頼も自分を跡取りと認めさせるために無茶を
するし、信玄時代の重臣たちにすれば、つなぎの跡取りの言う事など早々聞かないお。


も〜一つは時代背景お。

中規模の大名が乱立していた信玄の時代と違い、京都をはじめ日本の中央部は信長が
ほぼ支配下に収めていたお。

信玄と共に、信長包囲網を築こうとした浅井・朝倉は既に亡く、一向一揆などで
ゲリラ戦を展開していた本願寺も、信長の軍門に下っていたお。

対する武田は、信濃をほぼ手中に収めてはいたし、今川との同盟を破棄してまで
東海道に進出、念願だった水軍も手に入れたとはいえ、未だライバルである上杉
北条とも健在だったお。


既に天下に近づく織田と、武田には、決定的戦力差がついてしまっていたお。

これ以上、織田の増長を見過ごせなくなった勝頼は、長篠で重臣たちの反対を
押し切って信長・家康連合軍に戦いを挑み、大敗を喫しちゃうお。


劣勢の武田家にあって、勝頼の取り巻きが幅を利かせ、信玄時代の重臣たちとの間に
深い溝ができていたお。

『甲陽軍鑑』は、この様な状況下で、信玄時代の重鎮、高坂弾正昌信によって
書かれたお。

勝頼とその取り巻き、得に長坂・跡部の両名に対して書かれた『諫言集』の
意味合いが強いお。

文中には頻繁に長坂・跡部に「行いをかえりみよ…」と出てくるお。


『甲陽軍鑑』は、歴史家の言う『歴史書』などではないお!!


そしてもう一つ重要なのは、『日記』でもないという事お。

では、何なのかといえば『回顧録』お。


つまり『甲陽軍鑑』は、高坂弾正が老境にいたり、過去を振り返って書いた
『回顧録』であり、過去の出来事を元に武田武士のあり方を説いた『諫言集』
でもあるお。


決して、戦や事件のあった時期を正確に記した『歴史書』ではないお。

また、若い日から毎日つけていた『日記』でもないお。


なので、戦のあった時期が間違っていたり、事件の詳細が異なっているのは
当然お。


そんなん、正確に覚えている訳ないじゃんお!!?


「普通、夏にあった戦を冬にあったと間違えない…」とか言われてもお〜?

爺さんになってから書いたんだよォお?

しかも、高坂自身が参加してるかどうかも怪しい戦の季節が間違っているからって
荒唐無稽で歴史的価値が無い悪書かお?

単純に回顧録を書くんなら、正確に過去を思い出そうと、もがくかも知れないケド
甲陽軍鑑の目的は、あくまで勝頼と取り巻きに対する諫言お。

そもそも、甲陽軍鑑の冒頭で、「戦のあった年などが間違ってるかも知れない」と
書いてあるじゃんお。


大体、そんなん正確に覚えてるのなんて、それこそ『歴史家』くらいお♪

普通の人は、何十年も前に行った修学旅行の季節まで覚えとらんお!!?


なので、戦の起こった時期が違っていたからといって、内容が間違ってるなんて
かなり暴力的お。


一般人にとって重要なのは、年号などではなく『内容』の方なんだからお。


甲陽軍鑑を、荒唐無稽の悪書としたがために、『山本勘助』などは長らく実在は
しない伝説の人物と思われていたお。


でも、その後『市河文書』が発見され、管助(勘助)が市河氏への諜略の使者
(味方をしてくれたお礼もお?)としておもむくと記されていたお。

どうでもいい人物なら、わざわざ使者の名前など出すかお??

その後、子孫が結城家に招かれていた手紙も発見され、ほぼ実在は確定したにも
関わらず、まだ難癖をつけるアホもいるお?

山本勘助と、発見された手紙の山本管助が別人…って、歴史家なら戦国時代の
人の名前なんて、さらに違っていても同一人物とする場合も多々あるのに、読み
まで一致してて難癖つけるなんておwww


秋山信友の実際の名が秋山虎繁とか、内藤昌豊の実際の名が内藤昌秀とか、あっち
のが、わからんお???

何を持って断言してるのか、証拠となる手紙等があるなら、明らかにして欲しい
もんだお♪


大体、秋山氏なんてかなり古くから武田に仕えた一族なので、武田配下には
かなりの数の秋山さんがいるだろうに、信友→虎繁にする正確な証拠なんて
あるのかお???


それに、信玄の時代には、春日源五郎→虎繁に信濃の名族・高坂の姓を与え
高坂昌信とし、飯富源四郎に、甲斐の名族・山県の姓を与え、山県昌景としてるお。

他にも、教来石景政→馬場信春(信房)、工藤祐長→内藤昌豊(秀?)とか、名族の
姓を与えると共に、武田や自分の一字である『信』や、信玄時代に多く見られる
『昌』の字の入った名前に改名させてるお。

信玄が、自分の本名である晴信のうち、『晴』の字を与えられなかった理由は明白で
当時の征夷大将軍、足利儀晴から下賜された有りがたい一字であり、おいそれと
部下に与える訳にも行かなかったからお。


なので、『昌』の字を変わりに使ったのかお?

荻原常陸守昌勝とゆー、信虎に使えた伝説的軍師から来てる可能性もあるお?

逆に『虎』の字を与えていたのは、信玄の父の信虎の時代であり、信虎が自分の
一字である『虎』の字を配下に与え、虎泰、虎盛など、虎のつく将だらけだったお。


秋山信友(虎繁?)は、まず間違いなく信玄時代の人物であり、『虎繁』よりも
『信友』のが、しっくりくるし、有りそうなんだケドお???

一体、どこから虎繁が出てきたお???

『甲陽軍鑑』の作者である高坂昌信も、春日虎繁から高坂昌信に改名してるので
(後に元に戻しちゃうケドお)虎繁から信玄時代に信友に改名した可能性もあるお??


しかし、山本勘助の実在が確定しつつある今、甲陽軍鑑をいたずらに悪書と決め
つける訳にも行かないと思うお。

むしろ、年号意外は本当の可能性も十分あるお。


甲陽軍鑑は、高坂亡き跡は高坂の与力の、小幡光盛によって書き継がれ、光盛の
子孫の小幡勘兵衛によって完成されたとされるお。


はたから見ると、「部下とは言え赤の他人が書き継ぐか?」…と思うお?

でも、武田の場合与力って言うより、相備えって言った方がしっくり来るお。

大将とほぼ同格の武将を付けるので、大将が戦死した場合の指揮権喪失による
部隊の全滅を避ける手段と思われるお???


で、この大将と相備えの結びつきは、かなり強いと思われるお。

とくに高坂は、上杉謙信との最前線基地である孤高の城・海津城を任され、相備え
として小幡虎盛の兄である小幡虎盛の時代から高坂とこの城を守っていたお。

虎盛が老齢で死ぬと、家督は虎盛の子、小畠盛昌が継ぐんだケド甲斐の躑躅ヶ崎館
詰めとなったため、虎盛の弟の光盛が海津城で高坂の副将を勤めたお。

この高坂と、小幡(小畠)一族の結びつきから見ると、決して甲陽軍鑑を書き継いでも
おかしくは無いと思うんだケドど〜かお?


まあ、小幡勘兵衛の時代は、武田滅亡→徳川幕府の時代であり、家康が武田に惚れ
込み、武田の旧臣を多く登用していたから、仕官や売名のため『甲陽軍鑑』を捏造
って線もあるケドお?

高坂の書いた諌言集に近い作風に仕立て上げたお??

そんな手の込んだ事するかお???

でも、事実改変や書き足しはあったかもお?


しかし、徳川に仕えた武田旧臣はかなりの数に登るから、明らかに間違っていれば
他の旧臣からクレームが出そうなんだケドお?

甲陽軍鑑の否定が盛んになったのは、徳川に仕えた武田の旧臣が老いて死んだ後の
時代からだお。


みなさんは、ど〜思いますかお???

勘助の実在がほぼ確定した現在、甲陽軍鑑についても年号以外の事跡については
ある程度、信頼できるんじゃないかと思う、今日このごろお〜♪