武田 晴信・・・・・(のちの武田 信玄入道 晴信)
1521〜1573
甲斐源氏・武田信虎の嫡男として、甲斐に生まれる。
父・信虎に疎まれ、廃嫡の危機にあって処刑される寸前
牛若丸らに助けられる場面から、物語は幕を開ける。
史実では,のちに仏門に帰依し、『信玄』と号す。
『風林火山』の旗の下、戦国最強を誇った騎馬軍団を組織し
全国に武名を轟かせた。
『人は城、人は石垣、人は掘り、情けは味方、仇は敵なり』
の標語の如く、領内に巨大な城は築かず、有能な家臣団を組織し『人の城』を築いていく。
彼らは、後の世に『武田二十四将』と謳われ、多くの勇将、名将、智将を輩出した。
内政にも優れ、『甲州法度」と呼ばれる法律を制定、後の徳川幕府の律令政治の基礎と
なる『武家諸法度』の原型となるものであった。
また当時、領内を流れる台風の度に氾濫する暴れ川を、『信玄堤』と呼ばれる、水の
勢いを殺す堤防を築き上げ治めるなど、領国経営にも能力を発揮した。
川中島では、宿敵・上杉謙信と幾度も干戈を交え、京への上洛途中、三方ヶ原では
家康を敗走させるも、志半ばで病に倒れる。